Eaj example aozora with rubi
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<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?> <?xml-model href="tei_all_ruby_20170322_4.rnc" type="application/relax-ng-compact-syntax"?> <TEI xmlns="http://www.tei-c.org/ns/1.0" xmlns:eaj="http://www.example.org/ns/ejaTEI"> <teiHeader> <fileDesc> <titleStmt> <title>走れメロス</title> <author>太宰治</author> </titleStmt> <publicationStmt> <distributor>青空文庫</distributor> <authority>金川一之</authority> <authority>高橋美奈子</authority> <date when="2011-01-17"> 2011年1月17日</date> </publicationStmt> <sourceDesc> <bibl> <author>太宰治</author> <title>走れメロス</title> <publisher>筑摩書房</publisher>「太宰治全集3」ちくま文庫、 <date when="1988-10-25" >1988(昭和63)年10月25日</date>初版発行 <date when="1998-06-15" >1998(平成10)年6月15日</date>第2刷 </bibl> </sourceDesc> </fileDesc> <revisionDesc> <list> <item> <date when="2011-01-17">2011年1月17日</date>修正 </item> <item> 入力<persName>金川一之</persName> 校正<persName>高橋美奈子</persName> <date when="2000-12-04"> 2000年12月4日</date>作成 </item> </list> </revisionDesc> </teiHeader> <text> <front> <p> <listPerson> <person xml:id="メロス"> <persName>メロス</persName> <occupation>牧人</occupation> </person> <person xml:id="ディオニス"> <persName>ディオニス</persName> <occupation>王</occupation> </person> <person xml:id="セリヌンティウス"> <persName>セリヌンティウス</persName> <occupation>石工</occupation> </person> </listPerson> </p> </front> <body> <p> <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は激怒した。必ず、かの<persName corresp="#ディオニス" ><eaj:ruby><eaj:rb>邪智暴虐</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>じゃちぼうぎゃく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby> の王</persName>を除かなければならぬと決意した。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>には政治がわからぬ。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、村の牧人である。 笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。</p> <p> きょう未明<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた <eaj:ruby><eaj:rb>此</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>こ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>の<placeName>シラクス</placeName>の市にやって来た。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>には父も、母も無い。女房も無い。 十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、 <eaj:ruby><eaj:rb>花婿</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>はなむこ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、それゆえ、<persName corresp="#メロスの妹" >花嫁</persName>の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。 先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。</p> <p> <persName corresp="#メロス">メロス</persName>には竹馬の友があった。 <persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>である。今は此の<placeName>シラクス</placeName>の市で、 <roleName>石工</roleName>をしている。 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、 訪ねて行くのが楽しみである。 </p> <p> 歩いているうちに<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、まちの様子を怪しく思った。 ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、 なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきな<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>も、 だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、 二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった <eaj:ruby><eaj:rb>筈</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>はず</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。 しばらく歩いて<persName corresp="#老爺"><eaj:ruby><eaj:rb>老爺</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ろうや</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby></persName>に逢い、 こんどはもっと、語勢を強くして質問した。<persName corresp="#老爺">老爺</persName>は答えなかった。 <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。<persName corresp="#老爺" >老爺</persName>は、 あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 <said who="#老爺">「<persName corresp="#ディオニス">王</persName>様は、人を殺します。」</said> <said who="#メロス"> 「なぜ殺すのだ。」</said> <said who="#老爺">「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」</said> <said who="#メロス">「たくさんの人を殺したのか。」</said> <said who="#老爺">「はい、はじめは<persName corresp="#ディオニス">王様</persName>の<persName corresp="#ディオニスの妹婿">妹婿さま</persName> を。それから、<persName corresp="#ディオニス">御自身</persName>の<persName corresp="#ディオニスの世嗣" ><eaj:ruby><eaj:rb>お世嗣</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>よつぎ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby></persName>を。 それから、<persName corresp="#ディオニスの妹">妹さま</persName>を。それから、<persName corresp="#ディオニスの妹">妹さま</persName>の <persName corresp="#ディオニスの妹の御子">御子さま</persName>を。それから、<persName corresp="#皇后">皇后さま</persName>を。 それから、<roleName>賢臣</roleName>の<persName corresp="#アレキス" >アレキス様</persName>を。」</said> <said who="#メロス">「おどろいた。<persName corresp="#ディオニス" >国王</persName>は乱心か。」</said> <said who="#老爺">「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、 というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、 少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。 御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」</said> 聞いて、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は激怒した。 <said who="メロス" >「<eaj:ruby><eaj:rb>呆</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>あき</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>れた<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>だ。生かして置けぬ。」</said> </p> <p> <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、 単純な男であった。買い物を、背負ったままで、 のそのそ<placeName>王城</placeName>にはいって行った。たちまち彼は、 <eaj:ruby><eaj:rb>巡邏</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>じゅんら</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>の<roleName>警吏</roleName>に捕縛された。調べられて、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>の懐中からは 短剣が出て来たので、 騒ぎが大きくなってしまった。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>の前に引き出された。 <said who="#ディオニス">「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」</said> 暴君<persName corresp="#ディオニス">ディオニス</persName>は静かに、 けれども威厳を<eaj:ruby><eaj:rb>以</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>もっ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>て問いつめた。 その<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>の顔は<eaj:ruby><eaj:rb>蒼白</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>そうはく</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>で、<eaj:ruby><eaj:rb>眉間</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>みけん</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>の<eaj:ruby><eaj:rb>皺</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>しわ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>は、刻み込まれたように深かった。 <said who="#メロス">「市を<persName corresp="#ディオニス">暴君</persName>の手から救うのだ。」</said>と<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は悪びれずに答えた。 <said who="#ディオニス" >「おまえがか?」</said><persName corresp="#ディオニス">王</persName>は、 <eaj:ruby><eaj:rb>憫笑</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>びんしょう</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>した。<said who="#ディオニス">「仕方の無いやつじゃ。おまえには、 わしの孤独がわからぬ。」</said> <said who="#メロス">「言うな!」</said>と<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、いきり立って<eaj:ruby><eaj:rb>反駁</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>はんばく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>した。<said who="#メロス">「人の心を疑うのは、 最も恥ずべき悪徳だ。<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」</said> <said> 「疑うのが、正当の心構えなのだと、<persName corresp="#ディオニス" >わし</persName>に教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。 人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」</said><persName corresp="#ディオニス" >暴君</persName>は落着いて<eaj:ruby><eaj:rb>呟</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>つぶや</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>き、ほっと<eaj:ruby><eaj:rb>溜息</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ためいき</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>をついた。 <said who="#ディオニス">「<persName corresp="#ディオニス" >わし</persName>だって、平和を望んでいるのだが。」</said> <said who="#メロス">「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」</said>こんどは<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>が嘲笑した。 <said who="#メロス">「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 </said> <said who="#ディオニス">「だまれ、<persName corresp="#メロス" ><eaj:ruby><eaj:rb>下賤</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>げせん</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>の者</persName>。」 </said><persName corresp="#ディオニス">王</persName>は、さっと顔を挙げて報いた。<said who="#ディオニス">「口では、どんな清らかな事でも言える。<persName corresp="#ディオニス" >わし</persName>には、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、<eaj:ruby><eaj:rb>磔</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>はりつけ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>になってから、泣いて<eaj:ruby><eaj:rb>詫</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>わ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>びたって聞かぬぞ。」</said> <said who="#メロス">「ああ、<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>は<eaj:ruby><eaj:rb>悧巧</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>りこう</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>だ。 <eaj:ruby><eaj:rb>自惚</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>うぬぼ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>れているがよい。 <persName corresp="#メロス" >私</persName>は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」</said>と言いかけて、 <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は足もとに視線を落し瞬時ためらい、 <said who="#メロス">「ただ、<persName corresp="#メロス" >私</persName>に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。 たった一人の<persName corresp="#メロスの妹">妹</persName>に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は<placeName>村</placeName>で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」</said> <said who="#ディオニス">「ばかな。」</said>と<persName corresp="#ディオニス" >暴君</persName>は、<eaj:ruby><eaj:rb>嗄</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>しわが</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>れた声で低く笑った。 <said who="#ディオニス" >「とんでもない<eaj:ruby><eaj:rb>嘘</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>うそ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>を言うわい。 逃がした小鳥が帰って来るというのか。」</said> <said who="#メロス">「そうです。帰って来るのです。」</said><persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は必死で言い張った。 <said who="#メロス">「<persName corresp="#メロス" >私</persName>は約束を守ります。<persName corresp="#メロス" >私</persName>を、三日間だけ許して下さい。<persName corresp="#メロスの妹" >妹</persName>が、私の帰りを待っているのだ。 そんなに<persName corresp="#メロス" >私</persName>を信じられないならば、よろしい、この市に<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName> という<roleName>石工</roleName>がいます。私の無二の<persName corresp="#セリヌンティウス">友人</persName>だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。 私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの<persName corresp="#セリヌンティウス" >友人</persName>を絞め殺して下さい。 たのむ、そうして下さい。」</said> それを聞いて<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>は、残虐な気持で、そっと<eaj:ruby><eaj:rb>北叟笑</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ほくそえ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>んだ。 生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この<persName corresp="#メロス" >嘘つき</persName>に<eaj:ruby><eaj:rb>騙</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>だま</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>された振りして、 放してやるのも面白い。そうして<persName corresp="#セリヌンティウス" >身代りの男</persName>を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、 これだから信じられぬと、<persName corresp="#ディオニス">わし</persName>は悲しい顔して、その<persName corresp="#セリヌンティウス" >身代りの男</persName>を磔刑に処してやるのだ。世の中の、 正直者とかいう<eaj:ruby><eaj:rb>奴輩</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>やつばら</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>にうんと見せつけてやりたいものさ。 <said who="#ディオニス" >「願いを、聞いた。その<persName corresp="#セリヌンティウス" >身代り</persName>を呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その<persName corresp="#セリヌンティウス">身代り</persName>を、 きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。<persName corresp="#メロス" >おまえ</persName>の罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」</said> 「なに、何をおっしゃる。」 <said who="#ディオニス">「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」</said> <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は口惜しく、<eaj:ruby><eaj:rb>地団駄</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>じだんだ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>踏んだ。ものも言いたくなくなった。 </p> <p> 竹馬の友、<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>は、深夜、<placeName>王城</placeName>に召された。 <persName corresp="#ディオニス">暴君ディオニス</persName>の面前で、<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス" ><eaj:ruby><eaj:rb>佳</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>よ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>き友と佳き友</persName>は、二年ぶりで相逢うた。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、<persName corresp="#セリヌンティウス" >友</persName>に 一切の事情を語った。<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName> は無言で<eaj:ruby><eaj:rb>首肯</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>うなず</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>き、 <persName corresp="#メロス">メロス</persName>をひしと抱きしめた。<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス">友と友</persName>の間は、それでよかった。<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>は、 縄打たれた。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、すぐに出発した。初夏、満天の星である。</p> <p> <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>はその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、<placeName>村</placeName>へ到着したのは、 <eaj:ruby><eaj:rb>翌</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>あく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>る日の午前、 陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の<persName corresp="#メロスの妹">十六の妹</persName>も、 きょうは<persName corresp="#メロス" >兄</persName>の代りに<roleName>羊群の番</roleName>をしていた。よろめいて歩いて来る<persName corresp="#メロス">兄</persName>の、 疲労<eaj:ruby><eaj:rb>困憊</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>こんぱい</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>の姿を見つけて驚いた。そうして、 うるさく<persName corresp="#メロス">兄</persName>に質問を浴びせた。 <said who="#メロス" >「なんでも無い。」</said><persName corresp="#メロス">メロス</persName>は無理に笑おうと努めた。 <said who="#メロス" >「<placeName>市</placeName>に用事を残して来た。またすぐ<placeName>市</placeName>に行かなければならぬ。 あす、 <persName corresp="#メロスの妹" >おまえ</persName>の結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」</said> <persName corresp="#メロスの妹">妹</persName>は頬をあからめた。 <said who="#メロス" >「うれしいか。<eaj:ruby><eaj:rb>綺麗</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>きれい</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」</said> <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、また、よろよろと歩き出し、<placeName>家</placeName>へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、 間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。 眼が覚めたのは夜だった。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は起きてすぐ、<persName corresp="#メロスの妹の婿" >花婿</persName>の家を訪れた。そうして、 少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。<persName corresp="#メロスの妹の婿">婿の <roleName>牧人</roleName></persName>は驚き、 それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、<eaj:ruby><eaj:rb>葡萄</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ぶどう</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>の季節まで待ってくれ、 と答えた。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。 <persName corresp="#メロスの妹の婿" >婿の<roleName>牧人</roleName></persName>も頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、 どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。</p> <p>結婚式は、真昼に行われた。 <persName corresp="#メロスの妹の婿">新郎</persName><persName corresp="#メロスの妹">新婦</persName>の、 神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような 大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、 めいめい気持を引きたて、狭い<placeName>家</placeName>の中で、むんむん蒸し暑いのも<eaj:ruby><eaj:rb>怺</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>こら</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>え、陽気に歌をうたい、 手を<eaj:ruby><eaj:rb>拍</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>う</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp> </eaj:ruby>った。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>も、満面に喜色を<eaj:ruby><eaj:rb>湛</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>たた</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>え、しばらくは、 <persName corresp="#ディオニス" >王</persName>とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、 外の豪雨を全く気にしなくなった。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。 ままならぬ事である。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、 まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、 雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。<persName corresp="#メロス">メロス ほどの男</persName>にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい<persName corresp="#メロスの妹">花嫁</persName>に近寄り、 <said who="#メロス">「おめでとう。<persName corresp="#メロス">私</persName>は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、 すぐに<placeName>市</placeName>に出かける。 大切な用事があるのだ。<persName corresp="#メロス">私</persName>がいなくても、もう<persName corresp="#メロスの妹" >おまえ</persName>には<persName corresp="#メロスの妹の婿" >優しい亭主</persName>があるのだから、決して寂しい事は無い。 <persName corresp="#メロス" >おまえの兄</persName>の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、 嘘をつく事だ。<persName corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>も、それは、知っているね。<persName corresp="#メロスの妹の婿">亭主</persName>との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 <persName corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>に言いたいのは、それだけだ。<persName corresp="#メロスの妹">おまえ</persName>の<persName corresp="#メロス" >兄</persName>は、<persName corresp="#メロス" >たぶん偉い男</persName>なのだから、<persName corresp="#メロスの妹" >おまえ</persName>もその誇りを 持っていろ。」</said> <persName corresp="#メロスの妹" >花嫁</persName>は、夢見心地で<eaj:ruby><eaj:rb>首肯</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>うなず</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>いた。 <persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、それから<persName corresp="#メロスの妹の婿">花婿</persName>の肩をたたいて、 <said who="#メロス" >「仕度の無いのはお互さまさ。<persName corresp="#メロス" >私</persName>の家にも、宝といっては、<persName corresp="#メロスの妹" >妹</persName>と羊だけだ。他には、何も無い。 全部あげよう。もう一つ、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の<persName corresp="#メロスの妹の婿" >弟</persName>になったことを誇ってくれ。」</said> <persName corresp="#メロスの妹の婿" >花婿</persName>は<eaj:ruby><eaj:rb>揉</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>も</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>み手して、てれていた。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は笑って村人たちにも<eaj:ruby><eaj:rb> 会釈</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>えしゃく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby> して、宴席から立ち去り、<placeName>羊小屋</placeName>にもぐり込んで、死んだように深く眠った。</p> <p> 眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、 これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>に、人の信実の存する ところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、 いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。 </p> <p>さて、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、ぶるんと両腕を大きく振って、 雨中、矢の如く走り出た。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。<persName corresp="#セリヌンティウス">身代りの友</persName>を救う為に走るのだ。<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の <eaj:ruby><eaj:rb>奸佞</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>かんねい</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby> 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、<persName corresp="#メロス" >私</persName>は殺される。若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。若い<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。<placeName>村</placeName>を出て、<placeName>野</placeName> を横切り、森をくぐり抜け、<placeName>隣村</placeName>に着いた頃には、 雨も<eaj:ruby><eaj:rb>止</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>や</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>み 、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は<eaj:ruby><eaj:rb>額</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ひたい</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、 もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。 まっすぐに<placeName>王城</placeName>に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。 ゆっくり歩こう、と持ちまえの<eaj:ruby><eaj:rb>呑気</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>のんき</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>さを取り返し、 好きな小歌をいい声で歌い出した。</p> <p>ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、 そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って<eaj:ruby><eaj:rb>湧</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>わ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>いた災難、 <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の足は、はたと、とまった。見よ、前方の<placeName>川</placeName>を。 きのうの豪雨で<placeName>山の水源地</placeName>は<eaj:ruby><eaj:rb>氾濫</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>はんらん</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>し、 濁流<eaj:ruby><eaj:rb>滔々</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>とうとう</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>と下流に集り、猛勢一挙に<placeName>橋</placeName>を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 <eaj:ruby><eaj:rb>木葉微塵</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>こっぱみじん</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>に<eaj:ruby><eaj:rb>橋桁</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>はしげた</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>を跳ね飛ばしていた。<persName corresp="#メロス" >彼</persName>は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、 また、声を限りに呼びたててみたが、<eaj:ruby><eaj:rb>繋舟</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>けいしゅう</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>は残らず浪に<eaj:ruby> <eaj:rb>浚</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>さら</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp> </eaj:ruby>われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、 海のようになっている。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は川岸にうずくまり、 男泣きに泣きながら<persName corresp="#ゼウス">ゼウス</persName>に手を挙げて哀願した。 <said who="#メロス" >「ああ、<eaj:ruby><eaj:rb>鎮</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>しず</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、 <placeName>王城</placeName>に行き着くことが出来 なかったら、あの<persName corresp="#セリヌンティウス">佳い友達</persName>が、私のために死ぬのです。」</said> 濁流は、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、 <eaj:ruby><eaj:rb>煽</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>あお</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby> り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>も覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、ざんぶと流れに飛び込み、 百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、 押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと<eaj:ruby><eaj:rb>掻</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>か</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>きわけ掻きわけ、 めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに<eaj:ruby><eaj:rb>憐愍</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>れんびん</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は馬のように大きな胴震いを一つして、 すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。 </p> <p>ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の<roleName>山賊</roleName>が躍り出た。 <said>「待て。」</said> <said who="#メロス">「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」</said> 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 <said who="#メロス">「<persName corresp="#メロス" >私</persName>にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから<persName corresp="#ディオニス">王</persName>にくれてやるのだ。」 </said> 「その、いのちが欲しいのだ。」 <said who="#メロス">「さては、<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>の命令で、ここで<persName corresp="#メロス" >私</persName>を待ち伏せしていたのだな。」</said> <roleName>山賊</roleName>たちは、ものも言わず一斉に<eaj:ruby><eaj:rb>棍棒</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>こんぼう</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>を振り挙げた。 <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、 その棍棒を奪い取って、 <said who="#メロス">「気の毒だが正義のためだ!」</said>と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、 残る者のひるむ<eaj:ruby><eaj:rb>隙</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>すき</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>に、 さっさと走って峠を下った。</p> <p>一気に峠を駈け降りたが、<eaj:ruby><eaj:rb>流石</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>さすが</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>に疲労し、 折から午後の<eaj:ruby><eaj:rb>灼熱</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>しゃくねつ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>の太陽がまともに、かっと照って来て、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は幾度となく<eaj:ruby><eaj:rb>眩暈</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>めまい</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、 よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。 ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、<roleName>山賊</roleName>を三人も撃ち倒し<eaj:ruby><eaj:rb>韋駄天</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>いだてん</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>、ここまで突破して来た<persName corresp="#メロス">メロス</persName>よ。 <persName corresp="#メロス" >真の勇者、メロス</persName>よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。<persName corresp="#セリヌンティウス">愛する友</persName>は、<persName corresp="#メロス" >おまえ</persName>を信じたばかりに、 やがて殺されなければならぬ。<persName corresp="#メロス" >おまえ</persName>は、<eaj:ruby><eaj:rb>稀代</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>きたい</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>の不信の人間、 まさしく<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>の思う<eaj:ruby><eaj:rb>壺</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>つぼ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>だぞ、と<persName corresp="#メロス" >自分</persName>を叱ってみるのだが、全身<eaj:ruby><eaj:rb>萎</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>な</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>えて、もはや <eaj:ruby><eaj:rb>芋虫</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>いもむし</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな<eaj:ruby><eaj:rb>不貞腐</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ふてくさ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>れた根性が、心の隅に巣喰った。 <persName corresp="#メロス" >私</persName>は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、<persName corresp="#メロス">私</persName>は精一ぱいに努めて来たのだ。 動けなくなるまで走って来たのだ。<persName corresp="#メロス">私</persName>は不信の徒では無い。ああ、できる事なら<persName corresp="#メロス" >私</persName>の胸を<eaj:ruby><eaj:rb>截</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>た</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども<persName corresp="#メロス" >私</persName>は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。 私は、<persName corresp="#メロス" >よくよく不幸な男</persName>だ。<persName corresp="#メロス" >私</persName>は、きっと笑われる。<persName corresp="#メロス">私</persName>の一家も笑われる。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は<persName corresp="#セリヌンティウス" >友</persName>を<eaj:ruby><eaj:rb>欺</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>あざむ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>いた。中途で倒れるのは、 はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、<persName corresp="#メロス" >私</persName>の定った運命なのかも知れない。 <persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>よ、ゆるしてくれ。<persName corresp="#セリヌンティウス" >君</persName>は、いつでも<persName corresp="#メロス">私</persName> を信じた。<persName corresp="#メロス">私</persName>も<persName corresp="#セリヌンティウス">君</persName>を、欺かなかった。<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス">私たち</persName>は、 本当に佳い<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス" >友と友</persName>であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、 <persName corresp="#セリヌンティウス">君</persName>は <persName corresp="#メロス" >私</persName>を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>。よくも私を信じてくれた。 それを思えば、たまらない。<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス" >友と友</persName>の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。 <persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>、 <persName corresp="#メロス">私</persName>は走ったのだ。 <persName corresp="#セリヌンティウス">君</persName>を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! <persName corresp="#メロス" >私</persName>は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。<roleName>山賊</roleName>の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。 <persName corresp="#メロス">私</persName>だから、出来たのだよ。ああ、この上、<persName corresp="#メロス">私</persName>に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は負けたのだ。 だらしが無い。笑ってくれ。<persName corresp="#ディオニス">王</persName>は<persName corresp="#メロス" >私</persName>に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、 <persName corresp="#セリヌンティウス" >身代り</persName>を殺して、 <persName corresp="#メロス" >私</persName>を助けてくれると約束した。<persName corresp="#メロス" >私</persName>は<persName corresp="#ディオニス" >王</persName>の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、 <persName corresp="#メロス" >私</persName>は<persName corresp="#ディオニス">王</persName>の言うままになっている。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は、おくれて行くだろう。<persName corresp="#ディオニス">王</persName>は、ひとり合点して<persName corresp="#メロス" >私</persName> を笑い、そうして事も無く<persName corresp="#メロス" >私</persName>を放免するだろう。そうなったら、 <persName corresp="#メロス" >私</persName>は、死ぬよりつらい。 <persName corresp="#メロス">私</persName>は、永遠に<persName corresp="#メロス">裏切者</persName>だ。 <persName corresp="#メロス" >地上で最も、不名誉の人種</persName>だ。<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>よ、 <persName corresp="#メロス" >私</persName>も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、<persName corresp="#メロス" >悪徳者</persName>として生き伸びてやろうか。<placeName>村</placeName>には私の家が在る。 羊も居る。<persName corresp="#メロスの妹 #メロスの妹の婿">妹夫婦</persName>は、 まさか<persName corresp="#メロス" >私</persName>を<placeName>村</placeName>から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、 くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、 ばかばかしい。<persName corresp="#メロス" >私</persName>は、<persName corresp="#メロス" >醜い裏切り者</persName>だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる<eaj:ruby><eaj:rb>哉</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>かな</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>。――四肢を投げ出して、 うとうと、まどろんでしまった。</p> <p> ふと耳に、<eaj:ruby><eaj:rb>潺々</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>せんせん</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、 水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から<eaj:ruby><eaj:rb>滾々</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>こんこん</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>と、何か小さく<eaj:ruby><eaj:rb>囁</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>ささや</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>きながら清水が湧き出ているのである。 その泉に吸い込まれるように<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は身をかがめた。水を両手で<eaj:ruby><eaj:rb>掬</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>すく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、 夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労<eaj:ruby><eaj:rb>恢復</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>かいふく</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>と共に、わずかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、 葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、 問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。 いまはただその一事だ。走れ! <persName corresp="#メロス">メロス</persName>。 私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、 ふいとあんな悪い夢を見るものだ。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>、おまえの恥ではない。 やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! <persName corresp="#メロス" >私</persName>は、<persName corresp="#メロス" >正義の士</persName>として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、<persName corresp="#ゼウス">ゼウス</persName>よ。 <persName corresp="#メロス" >私</persName>は生れた時から<persName corresp="#メロス" >正直な男</persName>であった。<persName corresp="#メロス" >正直な男</persName>のままにして死なせて下さい。</p> <p> 路行く人を押しのけ、<eaj:ruby><eaj:rb>跳</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>は</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>ねとばし、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は黒い風のように走った。野原で酒宴の、 その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を<eaj:ruby><eaj:rb>蹴</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>け</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、 十倍も早く走った。一団の旅人と<eaj:ruby><eaj:rb>颯</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>さ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。<said>「いまごろは、<persName corresp="#セリヌンティウス">あの男</persName>も、 磔にかかっているよ。」</said> ああ、<persName corresp="#セリヌンティウス">その男</persName>、<persName corresp="#セリヌンティウス">その男</persName>のために 私は、いまこんなに走っているのだ。<persName corresp="#セリヌンティウス">その男</persName>を死なせてはならない。急げ、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>。おくれてはならぬ。 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は、いまは、ほとんど全裸体であった。 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、<placeName>シラクス</placeName>の市の塔楼が見える。 塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。</p> <p> <said>「ああ、<persName corresp="#メロス">メロス</persName>様。」</said>うめくような声が、風と共に聞えた。 <said who="#メロス">「誰だ。」</said><persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は走りながら尋ねた。 <said>「<persName corresp="#フィロストラトス" >フィロストラトス</persName>でございます。貴方のお友達 <persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>様の弟子でございます。」</said> その若い<roleName>石工</roleName>も、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の後について走りながら叫んだ。 <said>「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの<eaj:ruby><eaj:rb>方</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>かた</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>をお助けになることは出来ません。」</said> <said who="#メロス">「いや、まだ陽は沈まぬ。」</said> <said>「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」</said> <said who="#メロス">「いや、まだ陽は沈まぬ。」</said><persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 <said>「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。 刑場に引き出されても、平気でいました。<persName corresp="#ディオニス" >王様</persName>が、さんざんあの方をからかっても、<persName corresp="#メロス" >メロス</persName> は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」</said> <said who="#メロス">「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。 人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! <persName corresp="#フィロストラトス">フィロストラトス</persName>。」</said> <said who="#フィロストラトス">「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、 間に合わぬものでもない。走るがいい。」</said> 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、<persName corresp="#メロス">メロス</persName> は走った。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。 </p> <p>陽は、ゆらゆら地平線に没し、 まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く<placeName>刑場</placeName>に突入した。間に合った。 <said who="#メロス">「待て。その人を殺してはならぬ。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>が帰って来た。 約束のとおり、いま、帰って来た。」</said>と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、 <eaj:ruby><eaj:rb>喉</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>のど</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp> </eaj:ruby>がつぶれて<eaj:ruby><eaj:rb>嗄</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>しわが</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>れた声が<eaj:ruby><eaj:rb>幽</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>かす</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、 縄を打たれた<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>は、徐々に釣り上げられてゆく。<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は それを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 <said who="#メロス">「私だ、<roleName>刑吏</roleName>! 殺されるのは、私だ。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>だ。彼を人質にした私は、ここにいる!」</said> と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく<persName corresp="#セリヌンティウス" >友</persName>の両足に、 <eaj:ruby><eaj:rb>齧</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>かじ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>りついた。 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>の縄は、ほどかれたのである。 <said who="#メロス">「<persName corresp="#セリヌンティウス">セリヌンティウス</persName>。」</said><persName corresp="#メロス">メロス</persName> は眼に涙を浮べて言った。<said who="#メロス" >「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。 私は、途中で一度、悪い夢を見た。 君が<eaj:ruby><eaj:rb>若</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>も</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>し 私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」</said> <persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>は、すべてを察した様子で<eaj:ruby><eaj:rb>首肯</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>うなず</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の右頬を殴った。 殴ってから優しく<eaj:ruby><eaj:rb>微笑</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>ほほえ</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>み、 <said who="#セリヌンティウス">「<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>、<persName corresp="#セリヌンティウス" >私</persName>を殴れ。同じくらい音高く<persName corresp="#セリヌンティウス" >私</persName>の頬を殴れ。私はこの三日の間、 たった一度だけ、ちらと<persName corresp="#メロス" >君</persName>を疑った。生れて、はじめて<persName corresp="#メロス" >君</persName>を疑った。<persName corresp="#メロス" >君</persName>が<persName corresp="#セリヌンティウス" >私</persName>を殴ってくれなければ、 私は君と抱擁できない。」</said> <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>は腕に<eaj:ruby><eaj:rb>唸</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>うな</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>りをつけて<persName corresp="#セリヌンティウス" >セリヌンティウス</persName>の頬を殴った。 <said who="#セリヌンティウス #メロス" >「ありがとう、<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス" >友</persName>よ。」</said> 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。 群衆の中からも、<eaj:ruby><eaj:rb>歔欷</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>きょき</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>の声が聞えた。<persName corresp="#ディオニス" >暴君ディオニス</persName>は、群衆の背後から二人の様を、 まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 <said who="#セリヌンティウス #メロス" >「おまえらの望みは<eaj:ruby><eaj:rb>叶</eaj:rb><eaj:rp> (</eaj:rp><eaj:rt>かな</eaj:rt><eaj:rp>)</eaj:rp></eaj:ruby>ったぞ。 <persName corresp="#セリヌンティウス #メロス"> おまえら</persName>は、<persName corresp="#ディオニス">わし</persName>の心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、<persName corresp="#ディオニス" >わし</persName>をも仲間に入れてくれまいか。どうか、<persName corresp="#ディオニス" >わし</persName>の願いを聞き入れて、<persName corresp="#セリヌンティウス #メロス" >おまえら</persName>の仲間の一人にしてほしい。」</said> どっと群衆の間に、歓声が起った。 <said who="#群衆">「万歳、<persName corresp="#ディオニス">王様</persName>万歳。」</said> <persName corresp="#ひとりの少女" >ひとりの少女</persName>が、<eaj:ruby><eaj:rb>緋</eaj:rb><eaj:rp>(</eaj:rp><eaj:rt>ひ</eaj:rt><eaj:rp>) </eaj:rp></eaj:ruby>のマントを<persName corresp="#メロス" >メロス</persName>に捧げた。<persName corresp="#メロス">メロス</persName>は、まごついた。 <persName corresp="#セリヌンティウス">佳き友</persName>は、気をきかせて教えてやった。 <said who="#セリヌンティウス">「<persName corresp="#メロス">メロス</persName>、<persName corresp="#メロス">君</persName>は、まっぱだかじゃないか。 早くそのマントを着るがいい。<persName corresp="#ひとりの少女">この可愛い娘さん</persName>は、 <persName corresp="#メロス" >メロス</persName>の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」</said> <persName corresp="#メロス">勇者</persName>は、ひどく赤面した。 </p> </body> </text> </TEI>